外国生まれの、お菓子の箱。
小さい時に遊びに行った同じ町内のじいちゃんの家には、
木製で皺だらけの箪笥の上にお菓子の箱があった。
団地の古びたアパートは他の棟と同じく二十階建て。
その十二階にじいちゃんの家があって、
私の家とは少しだけ狭く、そしてお線香の匂いがあちこちに染み付いている。
いつも埃っぽくて、昼間は陽射しにぼやけて蒸し暑い。
仏壇のある壁とは反対側に置かれた、私より遥かに年上の箪笥。
小さかった私はじいちゃんの家に行っても、
遊び道具なんか何もなくて。
何もする事がなくて。
見つけたその時から、もはや私の興味は、それにしか回らなかった。
背の高い箪笥の背面にぴったりと体を寄せ付け。
それを手に取ろうとしたのだ。
じいちゃんに見つからないよう、こっそりと。
そして最後まで腕を伸ばしきったけど、やっぱり届かなかった。

でもそれは、小学校に上がる前の年。
夏休みの、茹だる暑さがピークに達する真昼の事だ。
じいちゃんは私に赤いランドセルを買ってくれて、
浮かれながらそのランドセルを背負い、
それでも暫くしたら飽きてきて。
もう何度目か、一所懸命に背を伸ばして、箪笥の上を目指してみた。
かつん。
箪笥よりわずかにはみ出ていたお菓子の箱に、
それの角と私の爪とが当たる音がした。
背が伸びたのかな……と、二重に嬉しくなって、
それから、何度も背伸びしながら箱の角を引き寄せて行った。
蒸し暑くて、顔中が汗だらけになって。
畳の伊草がべたついた肌に幾つもくっついてる。
そんな事も気にならないくらい、
それくらいに熱中していた。
箱はやがて、箪笥の上からバランスを失い、
翻って、抱えた姿勢の私の腕におちてきた。
私はそれを両手で大事に抱えて、居間の真ん中にある小さなテーブルに置いた。
私が正座をしてそのテーブルに座りこむと、
お湯を沸かし終えたじいちゃんが居間に戻ってくる。
 「ランドセルはもう降ろしなさい。四月まで大事に仕舞っとくんだよ。」
 「この箱は、開けていいの?」
見つかってどきどきしながら、私は訊いた。
するとじいちゃんはにっこりと笑って頷いた。
お母さんに譲った、眉をハの字に下げた笑顔。

パッケージは、繊細なタッチに描かれ、鮮やかな色に塗られていた。
その中の見慣れない筆記対の英文や、
箱の一面に乗っけられている色とりどりのクッキーが、
私を好奇心の渦へといざなった。
それは奇妙ながらも魅力的なもの。
お菓子の箱には、何が入ってるのかな。
想像が付かないだけに、
全く知らない新しいものを見る事が出来るんじゃないかなと思うと、
蓋を開ける手にも興奮が伝わる。
箱を左手で持って、右手で蓋に爪を掛けた。
一息、力を入れた瞬間。
ばかっ。
蓋は開き、箱の中からセルロイドの溶けた匂いが溢れる。
私は、箱の中を覗きこんだ。
テーブルに手をついて、半腰になった、その上の視線から。
 「……」
私は口を開けて、あんぐりとした。
当時、そのまま固まって、期待が天から地へと落胆したのを覚えてる。
お菓子や、おじいちゃんの大切な持ち物などではなく、
綺麗な箱の中には、熱でどろどろに溶け、色褪せた、
一枚のバンドエイドしか入っていなかったのだ。
 「じいちゃん、このバンドエイド、もう使えないよ……」
 「……」
じいちゃんは、物憂げな眼差しから、
してやったりな私を微笑んだ。
 「……じいちゃん。」
 「……」
 「じいちゃん!ってば!」

あれから、ちょうど十年。
ランドセルはぼろぼろになるまで使われて、とっくに引退した。
高校生になった私は高校に入ってからも部活に入らず、
かといって滅多に家へ帰っていない。
それで、一体何をしているのか。
その答えはたぶん、聞くだけつまらないと思う。
今日は金曜日。
一週間で一番長い六時間の授業を終えた私は、
毎日のように通う、沿線の傍を歩いていた。
私の住んでいる街には、割と学校が密集している。
その所為で学校は狭く、校庭はろくな広さもない。
それは、私が部活をやらない理由の一つでもあるんだけど。
放課後、学校を後にし、
団地の密集している街並みまで来ると、
何だか時代錯誤な風景ばかりが目に付く。
狭い車道が線路とぶつかって、線路下の地下道になる所の傍。
地下道は古くて真っ黒なコンクリートのトンネルだ。
いかにも地下って感じの、嫌な匂いが立ち込めてる。
そんなトンネルの手前、
十字路の手前にあるコンビニへ、私は足を運んだ。
自動ドアが開くと、訊きなれたメロディーが流れる。
 『いらっしゃいませ!こんにちは!』
電子音声が流れるけど、店員はいない。
もちろん、客もいない。
私は鞄を片手に、店の正面にある白いカウンターから、
関係者用控え室の中に入った。

 「あら、今日はシフト入れてないわよ。」
休憩室に入るなり、そこで寛いでいた店長さんと会った。
っていうか、ここで会わなければ店員さんが居ない事になるから、
危うくとんでもないコンビニになる所だったんだけど。
 「あ、そうじゃなくて、昨日忘れ物しちゃって。」
 「この鞄の事?」
店長さんは私の通学鞄を持って、掲げた。
 「あ!それ。」
 「それ、って……今日はどうしたのよ。授業。」
鞄には全教科の教科書とノートが満載だった。
 「隣のクラスの友達に借りまくりでしたよ。」
少し溜めた後に、店長さんは肩を落として笑った。
そして後ろの椅子に、どっかり座りこんだ。
 「あのねぇ、基本的に学校からの直接出勤は禁止なんだけど。」
 「だってぇ……学校から近いし。」
 「そういえば、紗枝(さえ)ちゃん学校何処だっけ?」
そう訊いて、店長さんは煙草を咥えた。
煙草の先っぽが赤く燃えて、
そして口から離して、深呼吸。
 「ふぅ〜っ。」
 「二高です。」
って言うか、鞄の校章に書いてあると思うんだけどな……
 「うそっ!?」
私が言った台詞に、店長さんは突然びっくりしたようで、
もしかして……って考えて、私は訊いた。
 「店長、同高ですか?」
 「……ざ〜んねん!バイトの子で、一高に通ってるのがいたのよ。」
 「一高、ですか……」
第一高校と言えば、県内有数の名門進学校だ。
確かに、順番数えでは一つ違うけども、
実際には、一高と二高は雲泥の差ほど違う。
第一高校は文武両道。部活はホッケーとソフトボールが今年の夏、全国優勝。
私の好きなバスケも、インターハイでベスト四に入った。
勿論、勉強の方も……
 「その子、バイトしてる暇無いじゃん!」
って、私が思わず心配してしまうくらい。それくらいに実のある学校だ。
 「まぁ、家庭の事情って奴かね。」
 「あ……それで。」
私はこのコンビニでバイトを始めたのは、夏を過ぎた秋口の事。
もう寒波が肌をさす十二月になったけど、私はまだ新人だ。
バイトを始めたのは、家庭を支えるとかそういう立派な理由じゃなくて。
ただ、第二高校には何もなかった。
それこそ、スクールライフなんてかこつけて言えるほどの素敵なものなんて、ない。
何かする事があれば、と思い立って求人誌を買ったのは夏休みの頃。
別にやらしい雑誌を買うわけでもないのに、何だか緊張した。
私はもうすぐ、仕事をするんだなぁ……って。
ゆくゆくは、そうやって社会人になるんだろうな、と。
そういう、漠然とした実感を未来から引っ張ってきた。
 「来週から週五でお願い。よろしく頼んだよ、レギュラー。」
店長さんは灰皿に煙草をぎゅっと押し付けて、言った。
途端に行き場を失った煙が立ち込める。
 「さ、若い内からこんなモノ吸ってたら碌な大人にならないぞっ!」
店長さんに腰をぐいぐい押されて、休憩室から追い出された。
 「あ、お買い物。いいですか?」
私は忘れ掛けてた用事を、忘れ去らない内に店長に伝える。

今思えば、あの時の箱は高級なお菓子の箱だ。
小さかった私には複雑な味だから、
勿体ない事に、美味しくないものだった。
それでもお菓子はお菓子。
甘い物を滅多に食べさせてもらえなかった私にとって、
とても魅力的なものではあった。
レジの正面にはガムやら飴やら、梅干やら。
ついつい手にとって、即座に買ってしまいそうなものが棚に並べられてる。
一番下の段には、外国から輸入されてきたブランドチックなお菓子がある。
それはあの頃のお菓子のパッケがそのまま手のひらサイズになった、お手軽な商品。
外国人の味覚ってこういうのが好きなんだな、とか思う食感や風味。
複雑な味が何となく分かってくるようになったこのごろ。
今、私の中ではこういう外国産が大流行だ。
その内の一つのお菓子を手に取って、立ち上がった時。
ふと、今の時期と、コンビニに陳列されてる本棚の風景がぴんと繋がった。
私は場所を変えて、おもむろに店内の奥へと進む。
窓際の奥。アイスの入ったショーケースに近い角べ。
そこで私は上を見上げ、感慨にふけった。
期待通り、売られていた本。
去年までは黄色だったけど、今年は青い色にデザインが変わってる。
去年の今頃。
今更になって買った、分厚い受験高校の一覧書。
それは碌に先の事を考えてなかった証拠だった。
もしも去年にタイムスリップできたとしたら、
その頃の私を思い切り引っぱたいて叱り付けてやりたい。
でも、それは叶わない。
タイムスリップなんて、ドラマみたいな手段があるとしても、
その時は私より苦労してる人がタイムマシーンを与えられるだろう。
所詮は贅沢な羨望。
自分の撒いた種とでも、自業自得とでも、何とでも言える。
学校の成績が思わしくなかった私は進路相談で一般推薦を選び、
その日家に帰ってから、黄色い本をがさがさと調べた。
同じような文字で綴られる数々の名前。
その内の一校が、私の偏差値と一致した。
県立第二高校。
勉強は「中の上」で、校風も落ち着いていて、
大学進学者の割合が多い。
将来性が良いと書いてあった。
私からすればこんなに都合のいい巡り合わせはない。
此処しかない、と息巻いてた。

品物を買って、私はコンビニを後にした。
ドアマットを踏んだらメロディーが流れた。
 『ありがとうございました〜。』
自動ドアの開く動きと共に、
冷たい空気が私を覆う。
 「はぁ……」
溜息は白くない。
突然目の前を横切ったトラックの風圧でかき消された。
その所為で私は一瞬びっくりして、狭い路地の縁石まであとずさる。
 「こんな所、通るなよ……危ないなぁ〜。」
トラックが通り過ぎた後、私は再び歩き出した。
コンビニの向かい側は、
この道幅の狭い十字路を経て、真っ暗なトンネルへと続く。
入り口は緩やかに下る坂道。
夕暮れの薄暗い空を遮られて、
視界はいっそう暗くなった。
アスファルトを蹴るローファーの音は、
暗いトンネルの中で不思議に反響する。
それはとても面白い現象なんだけど、
今は、眼中に無かった。
私は未だに、引きずる思いを断ち切れない。
私は、第一高校がよかった。
いっぱい勉強しておけばよかった……
でも私は県立第二高校一年、篠塚紗枝。
その事実は、
今も、これからも、決して変える事は出来ないんだ。
友達に、何度も愚痴った。
その度に友達は言った。
私達も同じこと考えてる、って。
 「はぁ……。」
私は二度目の溜息をついて、トンネルを潜りぬける。
潜る前とはがらっと変わった景色。
突如として吹き付ける風に私は苛立ち、
手に持つ小さなポリエチレンの袋は振り幅一杯に靡いた。
そんな風に向かって呟く小言。
もう、遅すぎる。
幾ら悩んだってどうしようもない。
その声は賑やかな風の反響に消音されて、
そして、私の気持ちはうっすらと安らいだ。
持ち直して目線を見上げると、
工事中の開発景色が目立つ、新しい風景がいっぱい広がった。
その中で一足早く完成した老人ホームがある。
そこに、じいちゃんが住んでいる。

じいちゃんの家。
いつも看護士さんが私の家を思案して、私に帰るようにと促す。
でもそれはじいちゃんに会ってほんの十分程度と、
ゆっくりも出来ない時間だった。
でも今日はバイトもないし、幾分か長くいられる。
だから飽きるほどじいちゃんと過ごそう。
私はそんな事を思っていた。
更地に自生するすすきの群れは、私を腰の辺りまで包む。
猫は私と間合いを取りながら、
私の手にする猫じゃらしを目で追う。
夕日の赤が辺りを照らし、相対する真っ黒な私の影が揺れるすすきに映った。
冷たくも綺麗な空気が肌をさす。
それは熱を持った顔を撫でたが、感覚が麻痺して何も感じない。
風が吹くと、穂の群れはこれでもかと横になびき、
私は手で舞い上がる髪を押さえていた。
ふと、更地に隣接する白いタイルを基調にした建物を見据える。
私から見えるその家の横面には非常用の階段が取り付けられていて、
正面は、自動ドアがある。
看板はない。そして表札もない。
そこがじいちゃんの家である。
いわゆるところの、老人ホームだ。
この時間なら夕食前だし、会うには充分なタイミング。
私は寄り道していた更地を抜け出した。
そこで私は後ろの更地を振り向いてみたけど、
すすき野原にさっきの猫はもういなかった。

じいちゃんは、世界中の山々を登る冒険家だった。
私はその時の写真を何枚か見せてもらった事がある。
アルバムのセルフィルムに挟まれた一枚の写真。
霜だらけのフードに覆われて少ししか顔が見えなかったけど、
ごつごつした岩の剥き出る雪原には、
面影のある人の顔が誇らしげに映っていた。
厳しい顔をしたじいちゃんだ。
それはとても頼もしい姿。
小さい頃私に向けてた優しい顔からは想像もつかない。
三十のじいちゃんは、登頂の世界記録を打ちたてた。
登山家の間ではとてもインパクトのある出来事だったらしい。
当時誰も登りつめた事のない、世界最高峰で難関と呼ばれた山。
そんな未知の領域に立っている日本人の姿。
それが写真に映るじいちゃんだった。
そういう特別な場所に居たからこそ、って言うのもあるし、
日常でもなかなか気が付かない面があったけど、
それまで誰も知らない、じいちゃんの異変があった。
私が物心ついた頃には、
じいちゃんは痴呆症になっていたのだ。
さして症状と呼べるものもない、とても軽い程度。
だけど、誤った判断でよく事故を起こして、
私が五歳の時に足を骨折した。
それからはもう登山も冒険も止められ、
団地の十二階に独りで住んでいた。
じいちゃんは、辛そうだった。
いつしか、樹立した記録は皆の記憶から消えた……

リノリウムの床には車椅子の人が沢山いて、
車椅子を離れ、テーブルに座りじっとしている人や、
大型のテレビにかじりついている人達もいる。
みんな、思い思いにこの家で暮らす人達だ。
 「じいちゃん。」
私が呼びかけたその人は、
私が入り口に来た時から私を見つけたらしく、
向こうから私の方へ車椅子を押してやって来た。
一緒について来た看護士さんは、袋に一杯のお菓子を持っている。
 「こんにちは。」
わたしは、もう顔なじみのその人に挨拶をする。
 「早いのね。」
 「今日は、バイト入れてないんで。」
 「これ、貰ってくれる?」
看護士さんは、右手に持つ袋一杯のお菓子を持ち上げる。
私は首をかしげた。
 「昼間ね、紗枝ちゃんの母親さんが来たのよ。
それでほら、誠吉さんお菓子とか好きだから。」
 「じいちゃんに渡さないんですか?」
ますます私は不思議がったが、看護士さんもじいちゃんを見た後、不思議そうに言った。
 「要らないって言うのよ。幾ら勧めても。」
じいちゃん、母さんの事嫌いだからな……
私は苦笑いでその場をやり過ごした。
ふと、じいちゃんがずっと口をもごもごさせている事に気付く。
 「じいちゃん何舐めてるの?」
 「ああ、これ。」
看護士さんが見せたそれは、私が数日前にあげたミルク飴だった。
 「って、じいちゃん脱脂粉乳が嫌いだって……」
何だか申し訳なさそうに断ったはず。
 「それがねぇ……母親さんが来た途端にこの飴ねだって、
この差し入れは執拗に断ったのよ。」
看護士さんは断られたお菓子類をもう一度持ち上げた。
私も、親が嫌いだからよく分かる。
と、三人で作った会話が突如途絶えたので、
看護士さんが仕切りなおした。
 「それじゃ誠吉さん、お部屋に戻ってゆっくり話しましょうか。」
 「……ん。」

団地の十二階にある、じいちゃんの家。
私が遊びに行くと、毎回必ず眠ってしまうのを覚えている。
それは私の家にも、その中の私の部屋にでさえなかった、
いつも温かくて優しいものに包まれているような不思議な空気があるからだ。
そんなひと時が失われたかと思いきや、
ここには、あの頃と全く変わらない雰囲気が立ち込めている。
部屋のカーテンを開けると、
温もりのある夕陽が差し、陽だまりは部屋中に広がった。
 「じいちゃん、相変わらず看護士さんに無愛想なんだから。」
看護士さんが私達を見送った後。
無音の室内で、私が椅子を出した時、じいちゃんは答える。
 「見慣れない娘っ子ばかりなんだからしょうがないだろう。」
そういえばここに通い始めた最初は、私にも無愛想だった。
曰く、戸惑ったらしい。
久しぶりに見る孫はとっくに成長していて、
大きくなった私にどう接していいのか分からないという。
じいちゃんにとっての私は、まだ幼い頃の姿だった。
私も、四月に見たじいちゃんはもう何年と会っていなかったので久しぶりだった。
それまでの私はとても好き勝手だった。
碌に家にいないのは中学の時から。
夜通し遊んで、家族の事情なんて全く耳に入らない。
だから、じいちゃんがここに送られた事を聞いて、ショックだった。
 「紗枝は相変わらず家に帰らないのか。」
ふとしてじいちゃんは訊く。
 「……うん。」
私はいつものように、やり過ごしで答えた。
 「何処で寝泊りしてるんだ?」
その口調は咎めている様。
 「団地の十二階。」
友達の家を転々とするのは、中学で卒業した。
でも、そこにあの頃の雰囲気はない。
ただ、昔の味気ない面影だけ残し、全てが抜けて出て行った空間だ。
 「まったく……取り払ってなかったらどうするんだ。」
 「……友達の家、かな。」
やっぱり。
じいちゃんと会ったのが縁で、私は何とか家に帰らずに住んでいる。
 「いいか、人様に迷惑をかけるのはもう止めなさい。」
 「……はい。」
私はしゅんとなって、頷いた。

過去に戻って、やり直したいと思わされる今の日常。
そこには殆ど夢も取り柄もない。
だけど、此処があるだけで、私にとって大きな救いだ。
でも、じいちゃんがいなくなったら、私は何処にいればいいんだろう。
言いたくないけど、その日は確実に来る。
その日までに、私はどう変わればいいんだろう。
夢なんて探せない。
勉強だってもっと頑張らなくちゃいけない。
友達にいい顔しなくちゃいけない。
綺麗にならなくちゃいけない。
それでも中学と比べたら、
頑張った甲斐なんて嫌になるほど小さくなってしまって。
駄目……無理だよ。
それは凄く惨めだよ。
私は、あの頃ほど自分を好きと思えない。
馬鹿やって、失敗して、感慨にふけって、何も考えられないで、
それは、凄く惨めなんだよ……
この雰囲気だって、”借り物”なんだから。
 「……そういえば、ほら、あったじゃないか。」
 「……ん?」
はっと気が付いて、慌てて顔を上げた。
その時まで顔が歪んでた事に、今初めて気付いた。
 「ああ、そうそう。」
じいちゃんはベッドの横に置かれた棚から、
四つ折りにされた紙を広げた。
それは、高校の文化祭の紙だった。
 「いつやるんだ?」
それは……
 「もうとっくに終わってるよ。」
十一月はじめの事。それに、二日続きの雨が重なって面白くもなんともなかった。
 「来年もやるんだろう?」
来年……
 「来年なら……」
 「じいちゃん、居るか分かんないじゃんっ!」
 「……」
じいちゃんは、私が怒鳴った事に戸惑っているようで、
その後短い言葉を何度も言いかけながら、
途切れ途切れな身振りで、慌てていた。
それはどうすればいいのか分からない様子で、
ともすれば、何かの拍子にベッドから落ちてしまいそうだった。
 「私、高校辞める……バイトして、外国に行くんだ。だから……」
私は椅子から立ち上がった。
じいちゃん……
腕一杯に捕まえて、寄り掛かった。
それでも、じいちゃんの背中には、手と手が届かない。
そして、何も構わずに、私は泣き叫んだ。
じいちゃんの呼吸は、広い海の上にいるようだった。
息を乱す私はそれだけでちっぽけになって、
たった一言が言えずに何度もしゃくり上げた。
じいちゃんには関係ないのに、可哀相な事をしてしまって、
 「……ごめんなさい。」
 「何で泣いてるんだ。」
 「……言いたくない。」
 「そうか。」
私の背中にじいちゃんの手が置かれる。
じいちゃんは言葉を置いた後、ひとこと言った。
 「私は、幸せ者だよ。紗枝が、私の孫だから。」
 「……」
何も言わなかったけど、顔を横にした私は硬直してしまった。
そのまま固まって、長い事、面会時間終了までそうしていた。

擦りむいて転んだ時には、
いつだって傷口に歯がゆい感触を宛がわれた。
痛くて泣くけど、それはただの傷。
傷だらけになっても、それでもまだ遊べる。
あの時見つけた、お菓子の箱。
今、その箱は何処にあるのか分からない……
帰り道、私はバイト先のコンビニを出た。
 「じゃぁ、そういう事で!」
 「……はいはい。負けたわ。」
私は店長と粘り強く交渉した結果、来週も週三にして貰った。
手には幾つかの情報誌。
ファッション雑誌や、スポーツ雑誌。
合わせてみたい服がある。
何だ、そんな些細な事で、と言うかもしれない。
今、やりたい事が沢山ある。
考えれば考えるほど、どんどん見つかってく。
久しぶりに、地元の友達に会ってみようか。
部活だって始めたい。
彼氏もつくってみたいし、
それらは今からでも遅くない。
遅くなんかないんだ。
小路を走って帰る。
見上げれば、団地と線路が作る見事な夜景。
不思議だな。
どうして、今まで気付かなかったんだろう。
こんな綺麗な夜景に。
吹き付ける風の心地よさに。
まるで、今までがモノクロの風景だった様だ。
見えるものの何もかもが尊く、美しく見えて憧れる。
私は、この世界を生きて行くんだ。
神様が私に用意してくれた世界を。
私は団地を過ぎてもまだ走り続け、
やがて、緩やかな坂の向こうに、明かりの着いた家が見えた。
『BAND-AID』
東瀬 一希

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