僕はひたすらに腕を振り回し、水の中で、息苦しさのしがらみを突き進んでいた。水の中は静寂で、ただ張り裂けそうな胸の鼓動が体の中からこみ上げてくるだけ。体はもう痛みの限界に近く、教えられた通りのフォームを保てているのかも分からない。

   最後の一直線。五十メートルプールの、その中間あたり。視界は、湧きあがってくる小さな水の気泡で真っ白になるばかりだ。

     意識だけが加速して、ゴールへと接近していく。もっと先へ、もっと早く。それがいつしか焦りになって、必死なストロークへと僕を駆り立てた。真っ白な水の中、届かないゴールラインに何度も手を伸ばす。腕を掻く度に来る水の重圧が、僕自身を押し進めた。それは信じられないくらい重くて、その手はついに水を掴み切れない。

     そして息継に水面から顔を出すと、真横にある青いレーンの先には別の泳ぐ姿が見えた。何度も、何度も、その姿が後方に退く事はない。体を伸ばしきっても、かき上げる腕にどれだけの力を込めても……『そいつ』には届かなかった。


     蒸し暑い猛暑が続く、夏の盛りの頃。

     太陽が空の真上を通り過ぎる時、陽射しが僕の家の窓へと降り注ぎ、床やソファーを斜めに照らした。リビングにはクーラーの唸る音が重く響き、窓越しに聴こえて来るセミの大合唱と合わさる。

   「ん……」

   気が付くと僕は気だるい耳鳴りの中にいた。クーラーの音なのか、それとも疲れているからなのか、僕は曖昧な意識で起きる気にもなれず、そのままソファーに仰向けでいた。

   ひどく魘された夢の中の出来事。それはほんの数時間前に本当に起こった出来事で、僕は未だその夢の内容をはっきりと覚えている。そして体に残る重い痺れは、あの結末の時からずっと残っているものだ。


   もう一度寝よう。そうしたら少しは忘れられるからと、僕は腕で顔を覆って、ソファーの一番深い所に頭を沈めた。

   リビングのドアからは、人の気も知らないで僕をしげしげ見てる弟がガラス越しに見えた。すると、その後ろから現れた母親が弟を払いのけて、リビングのドアを開けた。母親はそのまま受話器を取り、棚から電話帳を探す。そして、顔だけをこっちに向けて、言った。

   「応援、行けなくてごめんね。」

   僕は寝た振りだ。

   「なに、寝てるの?本当に。」

   ひどく子供じみて卑怯だとは思ったけど、何だか……相手をするような軽い心境じゃない。母親はしばらくして諦めると、再び受話器を持ち直した。

   「……もしもし、青島ですけど。里美さん?こんにちは。……え?ああ、うちの子でしょ、そうそう。でも、駄目だったらしいのよ。二着で落選。何だかねぇ……最近の学校の部活って酷って言うか……うん。それでね……」

   電話口で世間話を始める母親の声を聞いている内、僕はまた、まどろみの中に揺られて、沈んで行った……


   中学校生活最後の夏。水泳部で最後の大会を前に、部員の中から大会の出場選手を決める、学内大会選考レースがある。僕にとってそれは引退を背に望むレースでもあった。選考枠は各組の一着のみ。僕はC組の第四レーンでスタートを切った。

   第三レース、C組予選。一着は第五レーン、奥田誠司(おくだ せいじ)。二着、第四レーン、青島智史(あおしま さとし)。それが、レースの結果だった……


   夏の一日が終わりかけている。玄関のドアが少し開いていた。その隙間から差し込むオレンジ色の光が、廊下の階段辺りに置いてあるカバンを照らした。

   僕は階段のたもとに立つと、その小さくて膨らんだカバンを持ち上げる。それは塩素と、部室の匂いが染み付いたカバン。取っ手を握った時、そして立ち上がって差し込む光を見据えた時、鮮明な記憶の光景が脳裏に走り、僕はその度に動きを止めた。

   水の中で必死に手をかき回して、息苦しくて、水の中はあぶくだらけになる。それでもひたすらに先へ先へと自分を追い立てて、クタクタになるまで泳ぎ続ける……それの何処が面白かったんだろう。何の為にそれを続けてたんだろう。何の意味があったんだろう。

   今の僕は、その答えを言葉にするどころか、実体すらとりとめもない。


   僕は部屋に戻ろうとして階段を昇った。するとその折にポケットの携帯が鳴る。もう時間もくれているし、夕食が近い。こんな時に遊ぼうと誘ってくる人なんていないはず。僕は不思議に思ってポケットに手を伸ばしたけど、携帯は僕の手に触れる直前で鳴り止んでしまった。

   携帯を取り出して開けてみると、着信が三件。僕が寝ていた六時前に二度、そしてさっき鳴った三度目、みんな同じ人からの着信だ。それは、今一番ばつの悪い親友からの着信だった。

   『奥田』。

   僕は携帯をかざしたまま、固まった。すると即座に家の電話が鳴る。僕はカバンを階段に放り投げ、慌ててリビングに戻った。

   受話器を取ろうとするが、色々な戸惑いがあって躊躇った。だけど、その間にも電話は鳴り続ける。僕は意を決して受話器を取った。

   「……はい、青島です。」

   「……」

   小学校からの大親友で、その頃から始めた水泳では竹馬の友。お互いに何を思ってるのか分かり合える仲だったが、中学に入ってからは疎遠になった。話した回数すら疎らな”元親友”だ。

   「あ、あの……奥田と申します。智史君は」

   「僕。」

   奥田の声だって、最初分からなかった。知らない人のような声に、変わっていた。

   「智史か?声……変わったな。」

   「……」

   僕が奥田に言う事なんて何もない。僕はまた子供じみて、奥田に励ましの一言をかけられるような気にもなれなかった。

   「あのさ……六時半に校庭で待ってるから来てくれないか?話があるんだ。」

   電話をかけてきたのは、その話の為だったんだろうか。

   「話って?」

   「会ってから話すよ。」

   「……分かったよ。それじゃ、切るから。」

   「待ってるからな。絶対に来いよ。」

   奥田の言葉を最後にして、僕は受話器を静かに戻す。そして、そのまましゃがみこんだ。……話って、何だ?どうして僕なんだ?そんな疑問が渦を巻いて、戸惑っていた。今はもう六時十五分。すぐに家を出ないと、約束に間に合わない時間だ。

   僕は思い立ち、もう一度立ち上がった。

   「母さん、夕飯遅くなるから。」

   「ちょっと、今から!?」

   台所にいる母親に声だけ伝えて、僕は何も持たずに家を出る。


   自転車に乗って、ペダルを思い切り踏みつける。タイヤのライトを点け、僕は自転車を漕ぎ始めた。周りの景色は見慣れた通学路。夜に外へ出歩く人は少なく、自転車は住宅街をひたすらに進んで行った。

   やがて校門から、ライトアップされたグラウンドが見える。ブレーキをかけて自転車を校門の前に停めると、僕は校庭へと走り出す。明るく照らされた土の校庭。その真ん中に、長い影法師を踏んでいる奥田がいた。

   最後まで、届かなかった人。その距離すら縮められなくて、逆に遠ざかって行った、幼馴染。

   「遅刻だぞ。一分。」

   奥田は腕をかざしながら、ぶっきらぼうに言う。

   「言うのが遅いからだ。」

   突然だったというのに託けて、僕も同じくぶっきらぼうに返す。

   「何度も連絡したじゃんか。」

   「それは……疲れて寝てたけどさ。」

   腰に手を当てて、奥田は深いため息をつき、言った。

   「俺だって寝てたかったよ、ったく。」

   校庭の砂を一蹴りする。その動きは、何だかぎこちなかった。とりあえず僕は、奥田に労いの声をかける。それは、少しも感情のこもっていない棒読みの台詞。

   「嫌味じゃないけど、大会、頑張れよな。僕の分も。これでも結構悔しいんだから。」

   奥田に、反応はなかった。何だか、僕の方が不安になって、僕は更に続けて言った。

   「僕の出る幕なんて、完全に無しだよ。お前、プールサイドに上がる時にずっこけて、ちゃっかり笑いまで取るんだからな。」

   その瞬間、奥田の目つきが代わって、僕をきっと睨んだ。強い殺気を感じて、僕はたじろぐ。

   「な、何だよ……何だって言うんだ。」

   すると奥田は慌てて表情を戻す。

   「いや……何でもない。ごめん。」

   奥田が何を考えてるのかが、全然分からなかった。僕は、もとの話を切り出す。

   「それで、僕をどうしてここに呼び出したんだ?」

   「お前が言った、プールサイドで足を踏み外した事。」

   「それが?」

   まさかそれだけの話をしに呼び出した訳じゃないだろう。

   「靱帯を切った。」

   「え……」

   「あれから病院へ行って、診てもらったら……おれ、足を故障してた。だから……俺の言いたい事が分からないか?」

   突然のリタイアは棄権。それでも、まだ出場選手を正式に決めていない今だからこそ、奥田の言う事が何を意味するかがはっきりと分かる。

   「冗談抜かすな!まさか、お前……」

   「冗談なんか言ってない。代役を誰にも頼みたくない。智史が繰り上げで出場なんだ。」

   「だって、お前さっき足で砂蹴って……」

   暗がりになっていてよく見えなかったが、僕は奥田の右足を見てぞっとした。半分くらいに膨れ上がった、包帯だらけの足が見える。

   「お前、そんな足でどうしてこんな、校庭の真ん中まで歩いたんだよ……」

   「此処なら、お前の来るのが見えるだろ。」

   ふと、横を向いて先を見た。この校庭を囲う樹木の幹に、折り畳まれた松葉杖が立てかけてある。

   僕が視線を奥田に戻す頃、奥田は身構えていた。

   「ふざけるな!」

   奥田の足を鑑みず、僕はその襟を掴んで詰め寄る。

   「そんな事出来るかよ!僕は、どんな顔して泳げばいいって言うんだよ!お前より遅い僕が、お前に負けたって、やっと諦められたのに……」

   泳ぐ意味なんかもう考えなくて良かったのに、水泳を……捨てられる事が出来たのに……。

   俺は更ににじり寄って、奥田を睨み返す。

   「代役を、別組の二着に頼め。」

   「嫌だ。」

   奥田は頑なに拒否をした。

   「僕はもう泳ぎたくなんかない!思い出したくない……」

   「智史、よく聞けよ。」

   奥田は僕の肩に手をかけた。その手には、力がこもっていて、震えていた。

   「部員全員のタイムを並べても、智史が短いんだ。だからもう……覆せないんだ。」

   「どうしてお前はそういけしゃあしゃあと役を降りるんだよっ!何であんなくだらないドジを踏んだんだ……」

   僕が言葉を言い切らない内に、奥田は僕を叩いた。気が付けば耳鳴りが残り、頬にじんじんとした痛みが残った。そして、奥田は叫んだ。

   「そんな事!お前に言われなくても……言われなくたって……」

   「誠司……」

   「悔しいんだよ。一番だった俺が、何でお前なんかに譲らなきゃいけないんだって。そうは思うけど、でも、俺にはもう智史の泳ぎしかないんだ。だって……」

   三年前までの親友。奥田に、僕はどうしてここまで思われているんだろうか……辛さも、投げ出したい気持ちも、僕より奥田の方が強い。それなのに奥田は自分を隠し、代わりの泳ぎ手に僕を考えたのだ。

   その時の奥田は、姿が僕より大人っぽく見えて、逆に僕の姿は、見っともない位ちっぽけに思えた。奥田の心境は、僕には考え付かないほど複雑だ。僕の頬に今でも残る痛みは、言葉にできない奥田の心境全てを代弁していた。

   「明日の朝練に行けよ。それが最後の調整だから。」

   奥田は言った。明後日の大会。その日の為に出来る事は、明日しかないのだ。奥田はもう、それ以上何も言わなくなって、一人で校庭の外へと歩いた。

   それを僕は引きとめようとして、奥田に呼びかける。

   「待てよ!」

   奥田の懐に回りこむと、その腕を僕の首に回して、肩を支えた。そして、僕たちは二人でゆっくりと歩いた。

   「智史、高校決めた?」

   高校……と訊かれても、いまいちピンと来ないのが現状。どんな自分でいるのかさえも想像が付かなかった。

   「……まだ。これから、勉強しなきゃいけないのか?沢山。」

   大方予想が付くのは、それ位だった。

   「当たり前だろ。これから半年、お前も道連れだからな。」

   「何が?」

   「図書館通い。」

   僕はその言葉になおざりな返事をした。代わりに、僕はこの先の事を奥田に訊いた。

   「誠司、朝練終わったら……カバン買いに行くの、付き合ってくれよ。」

   「……ああ。」

   片方の肩だけ支えたって、奥田の足取りはバランスが悪くなる。僕はその度に奥田の肩を持ち上げ、そして、一緒になって歩いた……


   ……二日後。

   大きなざわめきがドーム一帯に広がる。電光掲示板に載る僕の名前はローマ字表記になっていた。

   僕は奥田のキャップを深くかぶり直す。それは先日の事。カバンを買った時、奥田がひそかにカバンへ忍ばせたものだ。けれど奥田のキャップはきつくて、かぶり直そうにもこれ以上はどうしようもなかった。

   場内にブザーが鳴ると、観客席から拍手が起こる。予選を通過した僕は、この決勝のレースで第五レーンを泳ぐのだ。

   “On your mark”

   指示が出ると、走者一斉にスタート台に立った。ゴーグル越しに見える景色は、客席、そしてプール全体を見下ろせるくらいの、壮観な光景だ。

   “Set”

   最初で最後。諦めかけていたものは今、僕の胸の中で熱くなっている。鼓動は大きくて、僕は深く深呼吸をした。絶対に負けたくない。負けたくなんかない、今はその思いが全てだ。

   次の瞬間、スタートの合図が、場内に鳴り響く……


『On your mark』
  東瀬 一希

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